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  平成15(2003)年むつき(1月)20日

 明けましておめでとうございます。と言っても、もう松も明けてだいぶたちますが。
 今年の正月は、いつものように3日のサンケイホールでおこなわれた米朝一門会で明けました。サンケイホールのあるサンケイビルがいよいよ取り壊されると言うことで、サンケイホールでの米朝一門会は、今年が最後。考えてみたら、サンケイビルというのは、産経新聞と大阪新聞があり、ラジオ大阪がありアメリカ文化センターがあり、ホールがありパーラーがあり、当時としては最先端の文化複合ビルだったわけだ。私も産経新聞に勤めていた大学時代の友人のコネでラジオ大阪の時事漫才「いとし・こいしの新聞展望」の台本を書いたりコラムを書かせてもらっていたので、しょっちゅうサンケイビルに行き、サンケイパーラーでコーヒーを飲んだりビールを飲んだりカレーを食べたりしていた。コピーマシンを初めてみたのは、アメリカ文化センターでだった。1950年代から60年代初頭のことである。米朝さんとの出会いも、1000名も入るサンケイホールで落語をやるというのでのぞきに行ったら、そこで聞いたのが「地獄八景亡者戯」。いっぺんにいかれて米朝さんの追っかけをするようになり、1964年からは一緒にラジオ大阪で「題名のない番組」をやるようになった。大阪新聞に事件をネタにセミドキュメンタリー小説を書かせてもらったり、ミステリーマガジン評を書かせてもらい、そこで『SFマガジン』の創刊を知って、SFコンテストに応募したのがSF界へ入るきっかけである。そういう意味では、サンケイビルは、今日の私を生み出すのに大きな役割を果たしてくれた。
 私を育ててくれたサンケイビルが無くなるとは、寂しいかぎりだ。