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 平成14年(2002) 長月(9月)25日

 長らくご無沙汰しておりました。
 8月は、あまりの暑さにバテておりましたが、何もしなかったわけではありません。
8月28日は、毎日新聞のために米朝さんと対談しました。九月上旬に「桂米朝コレクション1 四季折々」がちくま文庫で出版されるので、そのタイミングもあるのでしょうが、べぇさんも、ことし77歳になって、大ホールでの独演会は、これで最後にするという宣言もしてしまったし、久しぶりにゆっくりと話したんじゃないかな。しかし、いつもながら、肝心の対談が終わって、二次会になってからの方が話が弾んで、編集の人は、「テープ回しておけばよかった」などと、ぼやいてましたが……。また、私が酒は飲むが食事はいらない、といってことわったら、べぇさんが、「そんなこと言わんと、これならいけるやろ」と、自分の肴を箸でつまんで、私の口に入れてくれたのをみて、編集諸氏は、またさわいで、あとで「感動しました」などという手紙をよこした。まるで、動物園のパンダになったような気分だね。

 29日に名古屋でおこなわれた、東海地震がおこったとき道路はどうなる、というシンポジウムでは、緊急時の伝言電話があるということをはじめて聞いた。普通の電話でも携帯電話でも、「171」という番号につなぐと、伝言を残したり聞いたりすることができるのだそうだ。95年の阪神大震災の時の経験を、有効に生かしてもらいたいものだ。
 
 9月3日は「小松左京賞」の最終選考会で、機本伸司さんの「神様のパズル」に決定した。読み始めれば、一気に読んでしまうのだが、そのあとがどっと疲れる。実は、8月上旬に最終選考に残った三作を4日で読んでしまい、だいたい気持ちは決めていたのだが、ひと月のあいだ、黙っていなければならなかったのは、つらかった。その間、お盆で世間はみんな休み。鬼秘書も休みを取って、二金会も三金会もなかったので、さびしかったな。また、鬱病がぶり返してしまいそうになったよ。しかし、9月になったら、さっそく忙しくなって、三日後の6日には、受賞者に大阪でインタビュー。その詳細は、「小松左京マガジン」第8巻に掲載されるが、機本さんも、小説の執筆に専念した3年間は、ほとんど人と話をしなかったという。お会いしたときには、それが、堰を切ったように饒舌で、ご自分でも「今日は、しゃべりすぎなことは、よくわかっています」といっていた。作家というのは、因果な商売だな。寂しがりなのに、書くときはひとりにならなきゃできないんだ。

 9月の二金会、フロンティア3000研究会は、北夙川不可止さんといって、西宮に住む都市探検家であり「新アララギ」の歌人でもあるゲイのお話。「関西のゲイ・コミュニケーション」についてお話ししてもらった。実は、私は、ちょっと緊張して赴いたのである。鬼秘書には怒られたが、ずっと昔に、ゲイバーで、「ふと専」のゲイに太股をさすられたことがあったのだ。北夙川さんは、言葉遣いも普通で、上品な若者だったので、一安心だったが。珍しく女性陣が多く来て、なかなか楽しく、盛り上がった会だった。

9月23日、お彼岸の連休最後の日は、岩手県一戸町にある御所野遺跡で、縄文お月見フォーラムがおこなわれ、小山修三・縄文人との腐れ縁でトークショーをしてきた。彼は岡田康博さんと一緒に21日から三内丸山遺跡、大湯環状遺跡と三日連続の出演。ご苦労なことだが、行ってみれば、御所野も珍しい土屋根住居が復元され、気持ちのいい公園になっている。博物館もそこにつながる木の吊り橋も、なかなか趣があって佳い。一万三〇〇〇人ほどの小さな町でも、最近はセンスのいいものをつくるところが増えてきたように思う。工業団地として開発した場所らしいが、いまや、遺跡が出てきてかえってよかったのではないか。平成になってバブル崩壊後の発掘で、遺跡公園は今年オープンしたばかりとのこと。
 帰りの車で東北自動車道を走りながら、岡田さんから聞いた話だが、遺跡の発掘というのは、開発の副産物で、ビルを建てたり道路を造ったりするときに、開発予算の中に発掘経費も計上されているもので、不景気になって建設や開発が減ると、自然に発掘も減って、それに関わる人間も雇うことができなくなってくる。実際、各地で考古学関係の人員削減が起こっているそうだ。ガラガラの高速道路を走りながら、開発から切り離して、なんとか考古学発掘の経費を捻出する方法はないものか、と頭を悩ませた。