平成17年(2005)ふみづき(7月)25日
今日は天神祭の船渡御を、日本経済新聞社の法務室から見物させてもらった。
交通規制があるからとずいぶん早くに家を出たのだが、やはり渋滞に引っかかって、5時からの飛騨世界生活文化センターのインタビューに、ギリギリ駆け込み、となってしまった。
大篝船が目の前に泊まり、奉安船、供奉船が行き交う様、午後7時からの花火もよく見え、石毛夫妻や吟コウ、小山(縄文人)、そして全日空のスッチーなどと、お酒を飲みながら楽しんだ。
見たい見たいと騒いでいた女房も鬼秘書も、大はしゃぎ。たしかにこのあたりの川沿いの景色は、パリにも負けぬほどキレイになった。水の都・大阪らしい祭を久しぶりに堪能した。
平成17年(2005)文月(7月)18日
午後2時からサンケイホールで米朝一門会、夜は、リッツ・カールトンホテルでこのホール最後の会の謝恩パーティ。
思い出深いサンケイホール、サンケイビルが取り壊されて建て替えるそうだ。ここも私の足を向けて眠ることの出来ない場所の一つである。
大学の朋友、三浦浩が産経新聞社に就職し、まだ職の見つからない私に何かとアルバイトをさせてくれた。サンケイパーラーで原稿を書いていると、サトウサンペイが漫画を描いていたり、司馬(福田)さんが来たり、いろいろな出会いがあった。米朝一門会は、通路までびっしりの入り。パーティも、誰がどこにいるか判らないほどの、大盛況だった。サンケイホールを愛した人々だけでなく、産経グループ関係者が一堂に会したのだから、無理もない。いや、ほんとうに、残念だが、新しいビルにもこれまでのような総合カルチャーを発信できるような機能を持ってほしいものだ。
平成17年(2005)ふみづき(7月)16日−17日
第44回SF大会、HAMACON2に参加。横浜グランド・インターコンチネンタルホテルに午後3時着。チェックインして荷物を部屋に入れ、会場受付へ。車椅子をかりて、移動。
全館禁煙とは、いったいどういうことだ。どこもかしこも、煙草を悪者扱いしているが、おかしいよ。
企画参加者のグリーンルームに行く。野田ちゃんが、いきなり「なんだ小松さん、杖なんかつかないでくれよ!」と来た。「うっせい! こっちだって好きこのんでついてんじゃないわい。女房や秘書がうるせいからついてんだ。」と、口の中で毒づく。珈琲、紅茶、ジュース、お菓子はサーブされるが、ビールはなく、煙草もダメと来た。こんなところに長居は出来ねぇ。野田宏といると、どうしてこう柄が悪くなるんだ?
夜は、サンセット・クルーズでマリーン・シャトル号に乗る。飲み放題、食べ放題、煙草もオーケーだろうと思ったが、パーティ会場はやはり禁煙だった。なんてこった。2007年のゲスト・オブ・オーナーということで中入りの挨拶をさせられたとき、私は「3分間この船を占拠し、禁煙を解く」と宣言した。大いに受けたが、その後に2007年のワールドコンでは、「文学としてのSF」について真剣に論じ会う会であってほしい、といメッセージは、果たして伝わったかどうか、あやしいものだ。
夜はホテルの部屋にコマケンが集まってくれて、じっくりとSFの話をした。
二日目の朝、10時から「海洋SF」の部屋で、谷甲州、上田早夕里といっしょにゲストとして参加。「日本沈没」の映画リメイクの話に集中したが、西村君が「日本沈没」のメカニズムを修正したり、異常気象のはなし、「沈没」第2部の話へと、話は広がった。来年は、全集が小学館から出る予定もあるし、賑やかな年になりそうだ。
早めにサイン会を終わらせて、ホテルのラウンジ・バーで一服しているところへ、野田宏が加わり、とり・みきが加わり、賑やかになる。
野田宏が、閉会式に出席しないのか、というので、「出ても良いよ」というと、鬼秘書が、「花火大会があるので、交通規制が始まる前に出ないと大変なことになる」といって反対する。また、翌日は、サンケイホール最後の米朝一門会に顔を出さなければならないので、遅くなっては行けない、というのだ。しかし、私としては鬼秘書よりもつき合いの古いSFに対する義理の方が大事なので、メインホールに車椅子を押してもらっていったが、楽屋にも階段があるし、客席の前の方にも行けないしで、あきらめて帰ることにした。野田宏にその辺の事情を伝えておいてほしいと伝言を残して・・・。
ホテルのタクシー乗り場にも、なかなかタクシーが来ない。夜の花火大会の影響が、もう出てきているのだ。早めに帰って、正解だったろう。
平成17年(2005)文月(7月)8日
今月のフロンティア3000研究会では、林信夫に「プレイガイド・ジャーナルにみる大阪のサブ・カルチャー」について話してもらう。
「プガジャ」は、1971年、東京の『ぴあ』よりも早くに始まったプレイガイド雑誌で、そこから漫画家いしいひさいちを生み、映画「「ガキ帝国」から島田伸介を生み、当時のアングラ劇団のクロス・オーバーを実現し、と、単なる「ガイド」ブックではなく、ジャーナリズムとしてのカルチャー・イベントを演出した。
『プガジャ』の編集長だった林信夫とは、イベントプロデューサーとして一緒に仕事をしてきたが、一度ゆっくりと『プガジャ』のことを聞きたいと思っていたのだ。